HOME>壱岐っ娘物語
淘汰されて行く中で

酒税法が施行された明治32年、壱岐には55社もの蔵元があり、酒造りが盛んに行われていました。その後、農地改革や戦争よる米・麦といった原材料の不足や、交通網の発達による価格競争の激化により蔵元は年々減少し、昭和50年代には酒作りへの確かな技と信念を持った12社の蔵元に淘汰されていました。 当時の壱岐焼酎は、島外の壱岐焼酎ファンも少しずつ増えてはいましたが、全国的に広く知られるには至っていませんでした。


期待と不安

そんななか各蔵元に激震が走ります。
当時の壱岐支庁長が【壱岐焼酎を全国に広めよう!それには大きな力が必要になる。すべての蔵元が一つになって会社を立ち上げよう!】と各蔵元に提案したのです。現在のようにインターネットなどが存在しない当時、小さな蔵元の力だけで壱岐焼酎を全国に広げる事は確かに至難の業でしたが、各蔵元は代々続いた一国一城の主であり、それぞれが意志の統一をし、足並みを揃えることができるのか?また、資金面の調達はどうすればいいのか?等、様々な不安がありました。
幾度もの協議を行い、ひとつずつ問題を解決した結果、【壱岐焼酎を全国に広めることが、壱岐の島のためにもなる。】という思いもあり、現在の6つの蔵元が合意し、昭和59年5月に【壱岐焼酎協業組合】が誕生しました。


壱岐焼酎はそれまで常圧蒸留の焼酎しか製造しておらず、当時の主流だった減圧蒸留ができる蒸留機が組合にありませんでした。メーカーからの指導を受けながら、機械の改良やデータの収集を日々行い、さらには購入した蒸留機本体に不安があったため、再度新しい蒸留器を購入して現在の品質を確立しました。
壱岐っ娘のネーミングは、全国各地から応募された約2万通の中から、壱岐という産地が分かり、かわいらしいという理由で役員全員一致で決定し、昭和60年4月に壱岐っ娘が誕生しました。


【壱岐っ娘新発売】と題打って、長崎、福岡をかわきりに全国の有名問屋、長崎・福岡の地場問屋と特約を結びましたが、すでに第一次焼酎ブームが始まっており、小売店の棚には多種多様な焼酎が所狭しと並んでいました。また、麦焼酎発祥の地【壱岐の島】が日本のどの位置にあるのかさえ知られておらず、ましてや麦焼酎発祥の地だという事は酒類業界以外の人は全く知らない状況でした。


その後徐々にではありましたが、テレビ、新聞等の取材を受け、また問屋様、小売店様の中には【壱岐焼酎が麦焼酎の原点だ】【壱岐焼酎は旨い】との評判が立ち、取り扱う問屋様や熱心な小売店様が壱岐に来島され工場まで足を運び、その美味しさが認識されていきました。また、壱岐出身の方々の暖かい郷土愛で壱岐焼酎を応援して頂き、その応援の輪が広がっていき全国展開への足がかりとなりました。


2007年、ある会社から提案で世界的な権威のあるモンドセレクションに出展することがきまります。世界の檜舞台で弊社の商品がどこまで通用するのかという不安と期待に社内が包まれました。
結果、最高金賞獲得には至りませんでしたが、最低評価が80点以上の場合に与えられる【金賞】を受賞することができ、世界で高い評価を受けた瞬間でした。
その後、2008年度のモンドセレクションに再度出展し、出展した商品すべてが受賞を果たし、その内2品が栄誉ある最高金賞を受賞することができました。
組合設立から現在まで会社が成長を続けてこれたのは、身近で支えてくれた家族や、販売店様、問屋様、郷土の方々、そして今も愛飲し続けてくださる皆様のお陰です。心より感謝いたします。



このページのTOPへ